おかしみ日記

おかしみは、スパイス。

ただ、悼む

任天堂社長の岩田聡さんが亡くなった。Yahooを開いたら、顔写真が載っていて「あれ?」と思ったら、訃報だった。すぐに「55歳で」という言葉が目に飛び込んできた。えーっ、と思った。やりきれない気持ちになった。お会いしたこともなければ、任天堂のゲーム機も持っていない僕だけれど、このニュースは心が痛んだ。岩田さんといえば、ほぼ日の記事でよく見かけたし、彼の言葉は「ほぼ日手帳」を通じて、時々目にしていたから、なんとなくよく知っているような気分だったのかもしれない。そんなふうに、なんとなく身近に感じていた存在が、ある日とつぜん、亡くなったなんて。しかも、55歳の若さとは…。

 

もう何度読み返したか分からない、ぼくの大好きなこの本の一節が浮かんだ。糸井重里さんが「ほぼ日」を立ち上げた時のエピソード。岩田さんが登場するくだりだ。まるっと引用したい。

 

さて口には出したものの、一カ月で本当にできるものなのだろうか。

そもそも事務所の引っ越しさえまだすんでいないのだ。

事務所には、古いパソコンが一台あるだけだし、『ほぼ日』が契約するプロバイダーも決まっていない。

最初に頼ったのは、ぼくの戦友とも言えるコンピュータの先生、岩田聡さんだった。

岩田さんは、「ハル研究所」という一時は和議申請までだした会社を、「星のカービー」シリーズなどの連続ヒットで復活させた社長さんでもある。知り合いになったのは、座礁しかかったゲームソフト「MOTHER2」の助っ人としてだった。超人的なプロデュースとプログラミングの技術で、一時は死産しかかったソフトを完成まで導いてくれた恩人でもある。経営者として、理科系の友人としてぼくにとっていろいろ学ぶところの多い貴重な人だ。ついでのように言うことではないが、正義感の強いところや、思いやりのあるところも大きな魅力だ。ただ、ちょっと落ち着きがない、ということは案外知られていないけどね。

ぼくは以前、この岩田さんにコンピュータを教えてもらって挫折した悪い生徒だったけど、彼は、ぼくがインターネットをはじめたとき、わがことのように喜んでくれた。

その岩田さんを、ぼくは五月の連休後の深夜、東麻布の新事務所に誘い、一カ月後の六月六日にホームページをスタートさせるということを話した。

「プログラマーは『ノー』と言ってはいけない」

というとんでもない信条を持つ岩田さんなら、なんとか短期間にスタートさせる方策を考えてくれるにちがいない、と信じていた。というより、甘えていた。

「来月の六日ですか。まぁ、ちょっと大変だけれど、できるんじゃないかなぁ。急いでやりましょう」

岩田さんは苦笑しつつも、そう答えてくれた。

彼の行動は素早かった。その夜のうちに、新事務所に編集室の機能を持たせるためのおおまかな配線などについて検討しはじめ、ホームページ立ちあげのためのプロバイダーとの契約事項やら電話回線のこと、サーバーのことなどなど、いまぼくが書いていてもよくわかっていないような技術的諸問題に関して考えはじめた。

すぐに二台のパワーマックG3が発注された。さまざまな機材が新事務所に届けられると、岩田さん自らが床に這いつくばって配線してくれた。

こういうことを「年商二十八億円、社員八十人を抱えるゲームソフト会社の社長だぜ」と誰かが笑ったけれど、そういうことは岩田さんには関係ない。悪いんだけれど、ぼくもそういうことは関係ないと考える人間だ。

新品の二台の真新しいパソコンは岩田さんに期限なしで貸与されたものだった。ぼくは感謝の意も込めて岩田さんに「『ほぼ日』電脳部長」の尊称を捧げた。かえって迷惑だったかなぁ。(『ほぼ日刊イトイ新聞の本』講談社文庫  123-124ページ)

 

書き写しながら、いいなぁ、愛があるなぁ、こういう関係性っていいなぁ、と思った。たいへんな時期を一緒に乗り越えた「戦友」のような存在。糸井さんにとっても、岩田さんにとっても、きっとお互いがお互いを尊敬し、尊重しあっていたんだろうなぁと想像する。

 

今日、岩田さんの訃報に接して、なぜショックを受けたのか。説明じみたことを書いてみたけれど、正直、よく分からない。折に触れて、今日のことは思いだすだろうし、その都度、悼むだろう。いまはただ、今日のことをここに書き残しておきたい。