おかしみ日記

おかしみは、スパイス。

近所にできた名前を聞いたことがないスーパーへ入った、雨だった。

近所にあった老舗の割烹料理店がコロナ禍でつぶれ、更地になってしばらくすると工事が始まり、この辺では聞いたことのない名前のスーパーができるという。建物ができてくるにつれ、白い壁面に窓がほとんど見当たらないその建物を僕らはサティアンと呼び、まだサティアン作ってるね、いつサティアンできるのかね、と工事現場の前を歩いて通るたびに話をした。そのサティアンが気がつけばすでにオープンしていたというので、今日は妻も僕も在宅勤務で家にいたので、昼休みにお昼ご飯を食べがてら、行ってみた。

名前の知らない、よく分からないスーパーにほとんど何の期待もせずに寄ったのだけれど、開店記念セールをやっていて、結局、3,000円近くも買い物をして出てきたのだった。いま人気のキウイ10個が500円なんて!という入り口から始まり、最終コーナーの総菜売り場で塩唐揚げを見つけてカゴに入れる頃には今夜のおかずはカツオのたたきと唐揚げに決まっていた。ヤクルト1000も棚に3つしか残っていなかったところを見つけ、わが家が2つを買った。僕はなんだか申し訳ない気がしたけれど、ヤクルト1000を初めて飲める喜びが勝った。3つ全部、買い占めればよかったか。

売り場のある2階からエスカレーターで1階におりると入口に花がいくつか飾ってあるのに気がついた。上りのエスカレーターを使ったときには気がつかなったけれど、開店祝いの花で、このスーパーができる前の老舗割烹料理店の社長の名前が差出人の札のところに書いてあった。その料理店を経営していた会社はまだつぶれていないということだろうか。何だか少しほっとした。

その店は仕出し弁当を作って配達したり、葬儀や法事などがある際にマイクロバスで送迎もしてくれて食事会ができるような昔ながらの広い割烹料理店だった。数年前に僕らも使ったことがある。義父の葬儀を終えてから食事をしたのだった。闘病の末に亡くなった義父のことを思い出すと今でも涙が出るのだが、あのとき経験した混乱した状況というか心情というかをいつか文章に書きたいと思うのだが、いまはまだ書けないでいる。いや、書かないようにしているのかもしれない。

予定通り、夕飯はカツオと唐揚げを食べた。カツオはほんの少し、かすかに生臭かったけれど大葉でくるむと美味しく食べられた。唐揚げは塩味が効いてて美味しくてばくばく食べてしまった。ヤクルト1000はもったいなくて、まだしばらく飲まずにキープしておく。キウイはきっと朝食で、ヨーグルトをかけて食べることになる。今日は1日中、雨だったけれど、サティアンのおかげでいい気分転換ができた。サティアンなんて言葉を書いてしまったけれど、1995年の春に大学に入学した僕はサティアンという言葉ですぐにあの建物や一連の出来事(事件)を思い出す。若い人がこの日記を読んでもサティアンのくだりはきっとよく分からないだろう。

挨拶をしそびれた

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2021年が明けた。例年なら元日や2日あたりには抱負のような言葉をFacebookに投稿して、「さあ今年も楽しむぞ、みんな今年もよろしくね!」という気分が盛り上がるのだけれども、今年は何だかそんな気がしなくて、でも、何か書いておきたくはあるので、こうしてブログを書いている。

 

今日はもう1月11日だ。実家から大雪にすっかり覆われてしまった建物の写真が送られてきた。越後湯沢などの山沿いならともかく日本海側の新潟市でもこれだけの積雪量になるのは珍しい。除雪車がこまめに来てくれているらしいが、除雪車がよけた雪をどかしたりするのは住民の仕事になるから雪かきで忙しくしているようだ。父がさっそく滑って転んで右膝を捻ったと母からの報告。精密検査もしたというが、こちらとしてはゲガもさることながら、病院に行くことで感染リスクが高まるほうを心配してしまう。

 

今年の新年の挨拶を書く気になれなかったのは、帰省しなかったせいもある。帰省という移動によって気分が昂揚するのって多分にあるよなと思った。毎年のように、ほぼパーフェクトに帰省をしていたから、年末年始を新潟で過ごさずに関東で過ごすのは何だか調子が狂うものなのかもしれない。仕事始めの1週間も完全テレワークだった。新潟と違って、冬でもずっと晴れている天気は、こちらで暮らす人には当たり前なのかもしれないが、僕にはやはり不思議に思える。

 

2日、3日と、9日、10日の土日は、田んぼでの作業に精を出した。耕作放棄地だった田んぼの整備はゆっくりと、でも、着実に進んでいる。さまざまな草が生え放題、伸び放題だった状態に比べると、見違えるようになった。

 

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草を刈って燃やしたあと、今度はさらに草の根元が残っているのを刈払機を使って削るように根こそぎとっていく作業をしている。

 

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歩くと足裏にまだ草の切り株があたる。それを削っていく。

 

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きれいに平らになる感じに。

 

田んぼの広さは約一反ある。長方形の長辺が60メートル位あるのだけれど、けっこう広い。1日あたり2〜3時間ほどかけて徐々に作業を進めている。このあと、水を入れて畔を直したり、田んぼの中の起伏をレイキを使ってならしたりする作業が待っている。

 

そろそろ、2拠点生活をやめて、里山に移り住み、田んぼ仕事とテレワークとで生活を成り立たせる方向に進むのもいいかもしれない、と田んぼで作業をしながら考えた。気温は低く寒いけれども、陽射しを受けながら動き回っている間は寒さも忘れて、つい考えごとに耽ってしまう。単純作業が心地いい。色んなことが頭をよぎっては消えていく。田んぼで過ごす時間を重ねながら、少しずつ、自分が変わっていくのを感じる。

 

 

本屋で大人買い

新浦安駅のアトレに入っている有隣堂にて。書店の棚を見てまわるのは本当に心躍る。久しぶりのリアル本屋さん訪問なのでなおさら。つい散在してしまうのであります。

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小屋を建てるなら、家を建てることがいつかあるなら、まず間違いなくこの人に設計してもらいたい。中村好文ファンに朗報のちくま文庫化。迷わず手にしてしまった。

普段着の住宅術 (ちくま文庫)

普段着の住宅術 (ちくま文庫)

 

 

週末を使った里山暮らしを始めて以来ずっと、コンポストトイレを作ろうと思ってて、その文脈でこういう本はついチェックしてしまうのです。

 

「自然とともに暮らす新しい生き方」という帯文に目を奪われました。

 

著者は1988年生まれ。自分より歳下の哲学者がこういう本を書いているのを見るとつい興味がわくのでした。

原子力の哲学 (集英社新書)

原子力の哲学 (集英社新書)

  • 作者:戸谷 洋志
  • 発売日: 2020/12/17
  • メディア: 新書
 

 

山口周ファンという元同僚がFacebookでシェアしてたのを思い出し、目次を読んで購入決定。

 

岸先生のブルデューに続く100分de名著は斎藤幸平さんのマルクスマルクス晩年の新資料の研究が進んでいるというのだけれど、とても気になります。

 

NHK出版の「学びのきほん」シリーズ最新刊は政治学。最近の政治(政治家の言葉や報道)ほんと、もやもやするよね。と思ってるので買ってみた。

自分ごとの政治学 NHK出版 学びのきほん

自分ごとの政治学 NHK出版 学びのきほん

 

 











 

耕作放棄地を田んぼに戻す

いま行っている週末の田んぼ作業は「野焼き」です。もう何年も耕作されずに草が生え放題だった田んぼを新しく借りたため、まずは草を刈り、刈ったあとの枯れ草を燃やしています。

 

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これがどうして量が多くて。毎週のように田んぼに出ては、少しずつ燃やしています。草を刈っていた頃の様子はこんな感じでした。

 

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刈った草を燃やすのは草の種を田んぼになるべく残さないようにするため。田んぼにした時に雑草が生えないように、と思ってのことなんですが、でも、休耕田に生え放題になっていた草の種類と、田んぼに水をはった時に出てくる雑草と、果たして、同じなんだっけ?という疑問がこれを書いているいま、浮かんできました。

知らないこと、知らないままで作業してることが多すぎる。僕ら夫婦はお米作りの一通りの作業内容や工程を学び経験したつもりなのですが、まだまだ浅いなあと思います。「雑草」とひとくくりに表現せず、よく観察し種類を調べ対策を練らないと。

とはいえ、刈った草をその場に放置しておいても邪魔になります。そのままそこで腐るのを待つ時間的な余裕はない。どこか他所へ移動させるわけにもいかないから、焼いて灰にしてしまうのが手っ取り早いというのもあります。

前日に雨が降ったせいで枯れ草が湿って燃えにくく作業がはかどらない週末も何度かありつつ、やっとこの土日で全ての枯れ草を燃やし終えることができそうです。

次のステップは、田んぼの表面を軽く耕すこと。トラクターの力を借りたいのですが、持っていないため、誰かお願いできる人がいないか思案中です。

より安全なお米まであと一歩!

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古いやり方がなかなかやめられない。カメムシ対策の農薬散布もその一つ。死ぬのはミツバチだけではありません。ネオニコ系の農薬が人の体にも影響を与えていることが最近の研究で明らかになっているそうです。しかも、それは散布量の多い日本だから実証できたということ。

欧米はミツバチへの影響が分かった時点で農薬にNOと言える規制が検討されてきたのに対し、日本は規制されるどころかゆるめられてきたそうです。ネオニコ系農薬が人体に与える影響は、身近な田んぼで大量にまかれる日本だからこそ検証されている。驚きすぎて屁が出たよ。

そんな農薬をまく理由も、詳しく知れば根拠がないというのだからこれまた驚きます。

カメムシが穂について吸うと米粒が黒くなってしまう。その黒い粒の含まれる量でお米の等級が左右され、買取価格が大きく変わってしまうのだそうです。でも、その等級の決め方にも、等級そのものにも今では意味がないと言っていいのです。だって、黒いお米は収穫後に専用の機械にかけて簡単に取り除くことができるのだから。

それに、カメムシに吸われて黒くなったからと言って、お米の味に何ら影響はないのです。単純に、見た目の問題なのね。

根拠の極めて非合理な等級という制度と、ネオニコ系農薬の慣習的な大量散布を改めること。

農薬をやめて!とヒステリックに叫びたいんじゃないんです。時代にそぐわない制度を直し、環境にも人にもいい状態でお米が食べられるようになるといい。そう願ってやみません。

願ってるだけでは変わらないから、グリーンピースさんの署名に参加してみたよ。あなたも何か感じたら、少しだけ詳しく知ってほしい。そして署名に参加してほしい。

グリーンピースの署名参加はこちらから。ぜひ!

https://act.greenpeace.org/page/34605/petition/