今日の読書 20260221
『インタビュー:坂本龍一』より。
ー坂本さんにうかがいますが、YMOの曲をカッコよく弾くためのコツのようなものがあったら教えてください。
坂本 僕のように弾けばいいんです(笑)。それは冗談ですが、きもっ玉を太くして、人前で弾く機会を多く持つことです。同じ才能と技術を持っているふたりなら、客の前で演って慣れた人の方がてっとり早くうまく弾けるようになります。 15ページ
今日の読書20260208
『自分の薬をつくる』坂口恭平(晶文社)より。
時田「えー、演劇をやってまして、今、台本が書けないんですよね」
坂口「自分のこと書いたらいいんじゃないかね」
時田「前まではそれでできてたんですけど、そうやってできた台本を人にやってもらうということに違和感を感じてまして、そうじゃない書き方というものを試したいと思ってたところに、今日、頭の中に浮かんでいるものを見えているままに書いているという坂口さんの話を聞いて、それは面白そうだから試してみたいなと。イメージ自体はあるみたいなんですよね、僕の体の中にも」
坂口「イメージがあるんだ。なるほど、じゃ試しみてもいいかもね。コツは毎日、同じ時間帯に同じ時間だけ書いていくといいよ」
時田「そのイメージは日付をまたいでも連続してるんですか?」
坂口「それは今の現実の時間の感覚だからね。時間が連続しているってこととか、一日が二四時間であると勝手に決めていることとか。この現実と連動させる必要はないと思うし、それをやっちゃうと逆に不自然な現実っぽいものにしかできないと思う。こちらで作っちゃだめだから。とにかくそこで起きていることをただ見て、できるだけ今のこの現実のことをほとんど知らない赤ん坊みたいに見て、あなたの体の中のイメージ、つまりこれも『別の現実』ってことなんだけど、そこの現実で生活している人として書いていったらいいよ」
時田「はい」
坂口「そこに向き合うと、やっぱりわけがわからないって最初は思っちゃうのよね。だって全然違う現実だから、意味もわからない、意味がないってどうしても思っちゃう。別の現実にとっての何かの意味はあると思うけど、そっちで起きていることがすぐ今の現実にとって何か役に立つわけではないから。そもそも役に立つと考えることもおかしいんだけど、ついついそう考えちゃう。
でもそういうことに引っ張られないで、とにくそこで起きている自然をそのまま描くことで少しずつ今の現実とは別の現実、つまり、『それが書くことの本質』なんだけど、それが形を持ちはじめていくよ」
坂口はさらりと言ってのけているが、すごい話をしてると思う。
今日の読書 20260117
ブランショが日記について書いた箇所を抜き書き。
日記の持つ面白さは、その無意味さにある。これが、日記の持つ傾向であり、法則である。毎日、その一日に保証されながら、その一日を自分自身に呼び戻すために何かを書くこと。これは、沈黙をのがれ、また、言葉のなかにある極端なものをのがれるための、便利な方法である。どの日も、われわれに、何ごとかを語る。書きとめられた一日とは、すべて、守られた一日だ。これは、都合のいい二重の作用である。このようにして、人は、二度生きる。このようにして、人は、忘却からも、言うべき何ごともないという絶望からも、身を守るのである。
人は二度生きるのだ、日記を書くことで!なんとなんと。
日記のなかには、二つの空無性相互のあいだの、幸福な補いあいのごときものがある。その生活から何ひとつ作り出さぬ人間が、自分は何ひとつ作り出さぬ、と書く。そして、これでやはり、何かを作り出したことになるのだ。一日のさまざまなくだらぬことによって書くことからそらされていた人間が、これらの些事を物語り、告発し、あるいはそれに満足するために、それらの方をふりかえる。そして、これで、一日が満たされるのである。これは「ゼロが自分自身に対して行う省察」であって、これについては、アミエルが果敢に語っている。
今日は何ひとつ作り出さなかったと書くことは、たとえ書くだけだとしても、何かを作り出したことになるのだ。日記を書くことは、仮に本当に何もなかった一日だったとしても、何もなかったと書くだけでも創作行為だと言える。じっさいは、何もなかった、などということはないということが、書いてみれば分かるのだけれど。
つまり人々は、書くことを救うために書くのであり、書くことによっておのれの生を救うために書くのである。
日記を書くことで、私は私の人生を救ってあげたいのかもしれない。
次いでまた、人々は、その日その日の貧しさのなかに身を没し去らぬために書くのであり、あるいはまた、ヴァージニア・ウルフやドラクロアのように、芸術という、芸術の何の限界も持たぬ要請という、この試練のなかに身を没し去らぬために書くのである。
何もなかったと感じた一日の「貧しさ」、それを貧しさと感じてしまうのは罠なのだと気づくためにも日記を書くことはいいのかもしれない。
2026冬の京都 小旅行 備忘録
2026年1月。冬といっても雪はなく、最高気温が15度と日中はとても温かかった。
今回訪ねたお店などをメモ。
◾️1日目夕飯1軒目
広東料理 鳳泉(中京区清水町)
春巻き、酢豚に、えびかしわそば(からしそば)。ビールはもちろん瓶ビール。京中華、ずっと食べてられそうな、あぶらあぶらしてない、さっぱりしてる独特な中華。酢豚にパイナップルだけでなく、きゅうりとライチが入ってるのには驚いたけど、豚肉の柔らかさとあんの甘さもしつこくなくて本当に美味しい。
◾️1日目夕飯2軒目
韓国料理 ハハハ(下京区恵美須之町)
いわゆる味の濃い韓国料理ではなく、済州島の家庭料理、田舎料理が食べられる。カウンターの目の前で調理しているお兄さんの、その手際の良さに感心してつい声をかけたら、手を動かしつつ、いろいろ話を聞くことができた。古い建物を活かした店の雰囲気からして、この若いお兄さんが一人で作った店なのかななんて想像したのだけれど、ぜんぜん違った。オーナーがいて、ぜんぶで7店舗お店があるそう。どれも韓国料理店なんだけれど、それぞれ独自性のある味を提供している。オーナーは料理教室を開いていて、そこに通っていた人たちがお店を持つようになっているのだとか。面白い。ハハハの店主らしきお兄さん(店長兼料理人?)も教室にずっと通っていたという。彼は調味料を極力使わない、素材の味を活かした家庭料理を追求するのが好きなのだそう。変わった名前、見たことのない名前の料理がメニューにたくさんあるけれど、注文した料理はどれも抜群に美味しかった。夏には夏のメニューもあるようなので夏にまた来たい。リピート確定の店でした。
◾️2日目
7:30頃にリーガグラン京都をチェックアウト。荷物はロッカーに預けることができた。と同時に、昨日買った要冷蔵の白味噌もフロントで預かってもらえた。ナイス。
西本願寺まで歩く。開いていた。敷地の広さと建物の大きさに圧倒される。京都の他のお寺でも感じる、この圧倒的なデカさは何なんだろう。いつ来ても、いつ見ても、圧倒的だ。昔の寺というのはそんなに権力?金力?があったということなんだろうか。(歴史についての学がないのをいつも後悔してる気がす、、)参拝している人は1人、2人。でも本堂の入り口には靴がいくつか見えたから、中に入って見学している人が少しはいるみたい。お賽銭をして手を合わせた。
◾️2日目朝食 喫茶若山(下京区二人司町)
たまごサンド、ウィンナーサンド、クロワッサン、そしてコーヒーを注文。2階にあがっていただいた。お店のインスタをチェックしたら、昨年7月にオープンしたばかりだった。古い建物をリノベした小ぢんまりとしたサイズ感がちょうどいい、居心地のいいカフェ。店主のセンスの良さが伺える。クロワッサンは外側の食感も、内側の重なった生地の重なり過ぎない適度な軽さも絶妙でとても美味しかった。
そして、いざ鈍考へ。
17系統、大原行きの京都バスに乗って北上。予約しておいた鈍考(左京区上高野)を訪ねた。ブックディレクターの幅さんが作った完全予約制の私設図書館兼カフェである。建物の設計は建築家の堀部安嗣さん。本好き、建築好きにはたまらない、最高のタッグによる空間。90分しか滞在できないなんて。ここに住みたいと誰もが思うだろう。入り口を入って左手の壁一面が本棚になっていて大量の本が並ぶ。端から端までひととおりチェックしながら、あ、これは自分も持ってる、読んだことある、なんて思いながら、ブランショの『来るべき書物』を取り出した。現代思潮社による箱入りの装丁で、古本だった。1968年の刊行。日記にまつわる記述を見つけたのでそこを重点的に読みながら、持参したノートに筆写していたら、瞬く間に時間が過ぎてしまった。あとで調べたら、ちくま学芸文庫に入っていた。
つまり人々は、書くことを救うために書くのであり、書くことによっておのれの生を救うために書くのである。
紫野和久傳 堺町店(中京区堺町)
わらび餅とお抹茶、白豆のおしるこ、山椒を使ったジンジャーエール。
祇園 権兵衛(東山区祇園町)
甘く煮たおあげののったきつねうどん、親子丼を注文。鶏肉がぷりぷりで柔らかくてたくさん入ってて食べ応えあり。少し山椒がふりかかってて美味。
大丸近くのプロントでスマホを充電。黄砂なのか、あるいは早くも花粉なのか、街を取り囲む山並みは今日はかすんで見えた。晴れてはいるが視界が薄ぼんやりする感じ。春っぽいとも言えるのか。まだ1月なのに。
京都駅に戻り、伊勢丹地下を見て歩き、八条口へ移動。竈炊き立てごはん𡈽井に入ってひと休み。小ビールと柴漬け入りコロッケをいただいた。
今回はこんな感じ。こんど来るときはもっとゆっくりと時間をとって来たい、といつも思うけれど、なかなかそうはいかないのだった。行きたいところがあり過ぎる京都。いつか、また。
今日の読書20251226
引用。
この「意識の保守性」を乗り超えるために、難しい「意識を変える」ことをせずに、まず「行動を変える」ことからやってみる。行動が適切に変われば、結果も変わります。結果が変わることで、最終的に「意識が変わる」ことを目指すのが、ベンチマーキングのアプローチだと言えるでしょう。
(17 ベンチマーキング)
『人生の経営戦略』山口周 301ページ
ショーンによる「経験」の定義は、私たちのライフ・マネジメント・ストラテジーに大きな洞察を与えてくれます。「経験」が学習の起点であり、さらに「経験」が「想定外の結果に出会って困惑すること」なのだとすれば、私たちが望ましいと考えている「何もかも想定通りにうまくいっている」という状態は「学習の停滞した状態」と言い換えることができるからです。
(18 経験学習理論)
同上 306ページ
私たちの学習・成長は「コンフォートゾーンから抜ける」ことでしか実現できないのです。
キーガンらによる研究は、私たちが、必死になって見せまいと隠している「弱さ」「みっともなさ」にこそ、実は私たちが成熟していく機会が潜んでいることを明らかにしています。
(19 発達指向型組織)
同上 320、321ページ




