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おかしみ日記

おかしみは、スパイス。

『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹

(引用メモです)

 

僕が勉強することに興味を覚えるようになったのは、所定の教育システムをなんとかやり過ごしたあと、いわゆる「社会人」になってからである。自分が興味を持つ領域のものごとを、自分の合ったペースで、自分の好きな方法で追求していくと、知識や技術がきわめて効率よく身につくのだということがわかった。たとえば翻訳技術にしても、そのように自己流で、いわば身銭を切りながらひとつひとつ身につけてきた。だから一応のかたちがつくまでに時間もかかったし、試行錯誤も重ねたが、そのぶん学んだことはそっくり身についた。(55ー56ページ)

 

しかし何はともあれ走り続ける。日々走ることは僕にとっての生命線のようなもので、忙しいからといって手を抜いたり、やめたりするわけにはいかない。もし忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。(102ー103ページ)

 

優れたミステリー作家であるレイモンド・チャンドラーは「たとえ何も書くことがなかったとしても、私は一日に何時間かは必ず机の前に座って、一人で意識を集中することにしている」というようなことをある私信の中で述べていたが、彼がどういうつもりでそんなことをしたのか、僕にはよく理解できる。チャンドラー氏はそうすることによって、職業作家にとって必要な筋力を懸命に調教し、静かに志気を高めていたのである。そのような日々の訓練が彼にとっては不可欠なことだったのだ。(109ー110ページ)

 

同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遙かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。(115ページ)

 

はあはあと短く息をしているのが初心者で、静かに規則的に呼吸しているのがベテランだ。彼らの心臓はゆっくりと、考えに耽りながら時を刻んでいる。僕らは路上ですれ違いながら、お互いの呼吸のリズムを聴き取り、お互いの時の刻み方を感じ合うことになる。作家たちがお互いの語法を感じ合うのと同じように。(118ページ)

 

しかし僕自身について言わせていただければ、「基礎体力」の強化は、より大柄な創造に向かうためには欠くことのできないものごとのひとつだと考えているし、それはやるだけの価値のあることだ(少なくともやらないよりはやったほうがずっといい)と信じている。そして、ずいぶん平凡な見解ではあるけれど、よく言われるように、やるだけの価値のあることには、熱心にやるだけの(ある場合にはやりすぎるだけの)価値がある。(134ページ)

 

こうして我慢に我慢を重ねてなんとか走り続けているうちに、75キロのあたりで何かがすうっと抜けた。そういう感覚があった。「抜ける」という以外にうまい表現を思いつけない。まるで石壁を通り抜けるみたいに、あっちの方に身体が通過してしまったのだ。(152ページ)

 

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること