おかしみ日記

おかしみは、スパイス。

脱原発は、ビジョンだと思う。1

原発のことを話すのは、とても、はばかられる。原発について話そうとすれば、賛成なのか、反対なのか、という立場の問題がはじまってしまうからだ。親しい人の前でさえ、話題にするのは、とても勇気のいることだ。

先日1月14日、ぼくは脱原発を訴えるデモに参加した。生まれてはじめて、デモというものに参加した。「デモ」と聞いて、何やらこわいもの、というイメージをもつ人が多いみたいだけれど、横浜で行われたそのデモは、騒然とした雰囲気のなか、緊張感でピリピリしている、なんていうのとはまったくちがうものだった。荷台にDJブースが備えられたトラックが先導し、そこから流れる軽快なリズムにのせて、参加者は手を振りながら、笑顔で原発反対を訴える。

げ・ん・ぱ・つ、は・ん・た・い
い・ま・す・ぐ、と・め・ろ・お
ゲンパツイラナイヨッ
ゲンパツイラナイヨッ

訴えるのじゃない、みんな、うたっている。まるで詩を口ずさんでいるかのようだ。若いお父さんに肩車をしてもらう小さな子どももいれば、仮装を楽しむ年配の夫婦もいる。思い思いの格好で、思い思いの表現をしている。まるでパレード、カーニバルじゃないか。カーニバルとちがう点があるとしたら、ぼくらのすぐ隣りを歩くのが制服姿の警官だということくらいか。

そんなデモに参加することさえ、人前でいうのは少し勇気がいる。参加しようと思いたったとき、原発のことをどう考えたらいいのだろうかと考えた。いや、そんなこと、ずっと考えてきたのだ。

原発に反対する、賛成する、諸手をあげて賛成はできないけれど致し方ないと考えている…。反対と賛成のあいだに、人の数だけグラデーションがあるのだと思う。ぼくがふと思ったのは、脱原発って、珍しく、みんなで掲げられるビジョンなんじゃないかということだった。

いま原発が存在している、という事実は変えることはできない。「いま原発をとめたら電気需要はどうまかなうんだ」と主張する人の言い分も、その事実に端を発しているのだろう。(本当はその事実認識も本当だろうかとぼくは疑っているけれど、それについては追って話していきたい)でも、原子力発電による電力供給を将来にわたって良しとするかどうかについては、議論の余地があるし、ぼくらが選択していけることだと思うのだ。

今の現状「だけ」を根拠にして、原発は仕方ないとあきらめるような態度をぼくはとりたくない。原発問題とは、10年後、30年後、100年後の未来から今を見て、これからを考え、いま、ぼくらが話しあい、決めて行くべきことではないだろうか。そのとき、脱原発というビジョンを掲げることは決して不可能ではないし、非現実的な絵空事でもないはずだ。

口にすることさえはばかられる、自分のまわりの空気をまず変えていかないと。勇気を出して、ブログに書く。ツイッターで、Facebookで考えを共有する。原発のことをよく知らない分からないなら、「分からない」と口にすればいい。誰かに聞いたり、みんなで教えあえばいい。反対か、賛成か、という立場だけを意識しすぎて、無駄な分断を起こしていたら、それこそ30年後も100年後も、不安のなかで過ごさなければならなくなる。そんな世界で暮らしたくないとぼくは思う。

ぼくはいま、30年後、50年後の自分に向けて、原発のことを書いていこうとしている。